平山 優(歴史学者)
志摩庄と志摩の湯
湯村温泉は、俗に「信玄の隠し湯」と呼ばれていますが、その歴史は信玄よりも古く、県内でも屈指の温泉です。この地域は、古くは志摩庄という荘園(皇族・貴族・寺社が私的に領有した土地、彼らの財源となった)があった場所でした。 志摩庄は、平安時代末期ごろに成立した荘園で、最初は京都の松尾神社領でしたが、後に摂関家のうちの九条家が所有するところとなりました。 室町時代の記録に、志摩庄の地頭(領主)として、山県氏(武田家の譜代家臣)の名がみえます。
この荘園の一角に温泉が湧き出るようになり、多くの人が集まる湯治場となりました。 伝承では、傷ついた鷲がしばしば飛来していることに気づいた地域の人が、茅原のなかに温泉が湧き出していることに気づいたとも、諸国を遍歴していた弘法大師が地蔵菩薩の降臨を祈願するとともに、人々の諸病平癒のために自ら錫杖で地面を掘り、湯を掘り当てたともいわれるが、はっきりしません。なお弘法大師伝説は、日本各地にあり、湯村もその一つでしょう。 現在確認されている最古の記録は、室町時代末期から戦国初期に活躍した、連歌師の柴屋軒宗長が、永正8年(1511)に甲斐国を訪れ、この地で湯治をしたとあることです。すでにこのころまでには、湯治が出来るほどの施設があったのでしょう。 湯村温泉は、この頃は、荘園名に由来する「志摩の湯」とも、「湯の島(志摩)」とも呼ばれていたようです。
武田家と湯村温泉
湯村温泉は、「信玄の隠し湯」として親しまれ、信玄が傷を癒やしたと巷間に膾炙されていますが、それは事実なのでしょうか。実は、武田信玄・勝頼が湯治をした記録が確かに残されているのです。
武田信玄・勝頼の事蹟や戦記を記録した『甲陽軍鑑』(江戸初期成立)によると、信玄は天文17年(1548)の塩尻峠の戦い(信濃守護小笠原長時との戦い)で負傷したため、甲府に帰陣するや、すぐに志摩の湯に湯治に来たとあります。幸いなことに、浅手であったため、十日ほどの湯治で完治したといい、政務に復帰できたといいます。
また武田勝頼も、湯村温泉で湯治を行っていました。このことが、信濃国筑摩郡の小池郷と内田郷(ともに松本市)の入会山をめぐる争論の経緯を列記した史料に記録されています。二つの郷村は、天正6年(1578)4月に山の利用をめぐって衝突し、村の地頭(領主)まで巻き込む事態となりました。 内田郷は、地頭桃井氏の支持をとりつけ、小池郷の山利用を差し止めてしまったのでした。悩んだ小池郷は、代表者を甲斐に派遣し、武田氏に訴えることにしました。ところが、ちょうど同じ頃、武田勝頼は越後に出陣していたため、裁判は実施されませんでした。戦国大名が遠征などで留守中は、裁判は停止されるのが当時の原則だったのです。そこで小池郷の代表者らは、勝頼帰陣後に再び甲斐に赴きました。裁判は、10月から二度にわたって行われましたが、裁定が下されることはありませんでした。 それは、相手方の内田郷を支援する地頭桃井氏は、なんと勝頼の従兄弟武田典厩信豊の親族(姪婿)だったため、武田家の奉行たちは、信豊に配慮したらしいのです。 納得できない小池郷の代表者らは、天正7年1月に再度提訴に踏み切りました。武田家の奉行衆は、両者の言い分をよく聞き、現地に調査員を派遣して事実関係の調査まで行いました。その後の経緯は、はっきりしませんが、小池郷の人々と桃井氏は、3月5日、武田勝頼の裁定を受けることとなったのです。 ところが、彼らが呼び出されたところは、武田氏の館(躑躅ケ崎館)ではなく、志摩(湯村温泉)だったのです。勝頼は、ここで湯治をしていたのでした。 小池郷の代表者らと桃井氏が志摩の湯に赴くと、勝頼はわざわざ湯治を一時中断して彼らに応対し、双方の主張と、現地調査の結果を責任者から聞き取りました。そして勝頼は、この裁判は小池郷の勝利と認定したといいます。 さらに勝頼は、裁許を下した結果を双方が受諾するよう求め、さらに御嶽昇仙峡にある金桜神社の鐘を撞いて神に誓約することを命じています。
このように、武田信玄・勝頼は、戦場での傷や慌ただしい日常の疲れを癒すため、頻繁に湯村温泉を利用していたことが確認できます。 「信玄の隠し湯」と呼ばれる温泉地は、山梨、長野、静岡、岐阜に伝えられていますが、このうち、信玄・勝頼父子が湯治を行ったことが確実な記録に登場するのは、湯村温泉だけなのです。
鬼が傷を癒やした湯村温泉
もう一つ、湯村温泉に伝わる伝説を紹介しましょう。武田信玄の家臣に、足軽大将をつとめる多田三八郎(淡路守)満頼という猛者がいました。 足軽大将は、全国から自分を売り込みに来た、腕に覚えのある荒くれ武者の中から、武田家が雇用した傭兵(足軽)を束ねる部隊長のことをいいます。 足軽は、個性が強く、気風も荒い、自尊心が強いくせ者ぞろいですから、彼らを心服させ、統率していくのはそう簡単ではなかったでしょう。 胆力と武威にすぐれ、彼らを引きつける統率力がなければつとまらなかったのが、足軽大将です。多田三八郎は、美濃国出身の牢人でしたが、武田家にその腕を見込まれ、足軽大将に抜擢されました。 彼はその生涯で、戦功は二十九度に及び、全身に二十七カ所の傷があったと伝わります。 この多田三八郎は、火車婆という妖怪を退治した逸話の持ち主です。 この話は、すでに江戸初期成立の『甲陽軍鑑』にも記載されており、彼が信濃国虚空蔵山城(長野県松本市)を警備していた時に出現し、これを斬ったとありことから、かなり古くからの伝承であるといえるでしょう。 火車婆とは、生前に悪事をはたらいた亡者を猛火に包まれた火車に乗せて無限地獄へと運ぶ鬼婆のことである。 もちろん、こうした妖怪変化が実在したわけではなく、恐らくこの地域の盗賊などを多田が討伐したことを妖怪退治に結びつけたのだろう。
ただ、この鬼退治の逸話には、続編がある。 『裏見寒話』によると、湯村温泉には俗に「鬼ノ湯」と呼ばれる場所があり、そこにはかつて鬼が傷を癒しに夜毎訪れた場所だという。 その昔、「鬼ノ湯」にはしばしば面妖な人物が湯治に訪れたが、その者が入湯する時は、必ず雲霧がそのまわりを覆ったという。 やがて湯に浸かっていた人物は、突如として天空に舞い上がり「我は多田三八に傷つけられし鬼なり」と大音響で名乗り、飛び去ったという。 鬼も傷を癒しに足繁く通うほどの効用があるといわれるようになった湯村温泉は、江戸時代に多くの湯治客を集め繁栄し、今日に至っているのである。